|
|
|
|
|
|
|
1960年代
食に対する社会的ニーズに即し
調理師・製菓衛生師の養成開始 |
|
1961(昭和36)年10月、国道43号線の拡幅工事が「兵庫栄養専門学校」の敷地内にかかるため、同地を立ち退き、代替地として提供された現在の兵庫県西宮市北昭和町(阪急「西宮北口」駅近く)に移転。一部旧校舎も移築すると同時に新校舎が完成しました。新校舎には、これも当時としては最先端の階段教室が設置されました。
移転にあたっては、準備のために職員たちが新校舎で寝泊まりしたり、現在のように引っ越し業者のサービスも充実していませんでしたので、調理器具や食器類を学生たちが電車に乗って往復しながら運んだのも、いまでは懐かしい思い出になっています。
調理の専門家に国家資格を与える「調理師法」が1958(昭和33)年に施行されたことを受けて、「兵庫栄養専門学校」では1963(昭和38)年、「東洋調理師学校」を夜間の課程として開設しました。昼間は栄養士科、夜間は調理師科と、ダブルスクール体制が整いました。
「兵庫栄養学園」開園のときに陰ながら尽力いただいた中島佐賀雄氏が、昼は兵庫県職員として職務に専念し、夜間は調理の研修講師を担当していた時期もありました。中島氏は兵庫県明石市で料理店を経営する家の次男でしたので、板前の腕は実践そのもので、学生たちの評価は絶大のものがありました。学校での授業のない日は、地域への貢献活動として、学校近くに住む女性たちに向けて週1回の料理教室を開いたのも、このころからでした。
1966(昭和41)年7月成立の製菓衛生師法にともない、1969(昭和44)年、製菓衛生師科を新設。同時期、兵庫県西宮市今津に、最新のトンネルオーブンを備えた製菓工場も建設しました。この当時、日本人のカルシウム不足が懸念されていたため、「クッキーかるる」の商品名でカルシウム入りクッキーを製造、病院、保育所などに納入したのも、拭石季枝ならではの、栄養学的見地からの発想でした。製菓工場では、学費や生活費に苦しむ学生たちをアルバイトとして雇い入れていました。 |
|
|
|
|
|