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1950年代
栄養士一期生の卒業
栄養士法改正 1年制から2年制へ |
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栄養士法は1947(昭和22)年12月に成立、1948(昭和23)年1月に施行され、養成期間は1年でした。栄養士法に基づく栄養士の養成は、1948(昭和23)年4月より始まりました。
「兵庫栄養学園」の一期生は1949(昭和24)年4月に入学し、1950(昭和25)年3月に卒業しました。卒業者数は26名でした。
1950(昭和25)年3月の改正栄養士法の施行に伴い、養成期間が2年となりました。
1950(昭和25)年4月に入学した二期生は、2年後の1952(昭和27)年3月に卒業しました。卒業者数は32名でした。
1951(昭和26)年4月に入学した三期生は、1953(昭和28)年4月に46名が卒業しました。
一歩一歩と階段を上るように、「兵庫栄養学園」から社会に卒業生を輩出しました。
1953(昭和28)年に新校舎が建設されました。それまでは、私邸を改造した校舎でした。
新校舎は、当時では珍しい木造二階建ての講義教室(1階が1年生、2階が2年生の教室)、他に調理室や実験室を含む棟でした。講義室の机は平板ではなく、少し手前に傾斜した形で、学生がノートを取りやすいように配慮され、当時としては斬新なものでした。校舎建設には、1952(昭和27)年4月入学、1954(昭和29)年3月卒業の四期生で現栄養士科同窓会(栄泉会)会長坂本豊子氏の父の協力により建設されました。この木造二階建て校舎と机は、現在の西宮北口校地内に移設されています。
調理実習では、当時食材の調達が困難でしたが、入手しやすいウナギ、ドジョウ、コイなどの川魚を用いてレシピが作られました。生きたニワトリを絞めるところから指導することも、当時から始まり最近まで続きました。
魚や野菜の種類など食材図鑑の不足を補い、日本画の技術を生かして、拭石季枝自ら大きく描いて図鑑を作り、教育の一助としました。
心の豊かさを求める教育の一環として、課外授業では茶道、華道、絵画を教えました。絵画は、山口華楊(やまぐちかよう)や上村松篁(うえむらしょうこう)に師事した拭石季枝が自身で指導しました。
1959(昭和34)年4月に次女政子の夫丸山荘太郎が庶務課長として加わりました。同年9月に栄養士の専門教育をする学校である事を簡明に表現するため、校名を「兵庫栄養学園」から「兵庫栄養専門学校」に変更しました。 |
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