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1940年代
創立者拭石季枝の建学
戦後の日本人に栄養を |
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創立者拭石季枝は、1914(大正3)年10月、福岡県福岡市に生まれ、父親の転勤に伴い兵庫県尼崎市に転居、旧制尼崎高等女学校を経て、京都長岡の日本女子美術学校(京都市立絵画専門学校)において山口華楊に師事し日本画を、日本割烹学校において辻徳光に師事し調理技術を、大阪帝国大学病理学教室片瀬淡教授の下で聴講生として栄養学を学び、その後に大阪陸軍嘱託、園田家庭学園栄養指導科主任、大阪府立食糧学校教務主任を歴任しました。
兵庫県西宮市の拭石準一と結婚しましたが、準一は第二次世界大戦に出兵、終戦後捕虜となり旧ソ連シベリアに抑留され、寒さ、強制労働、食糧不足による栄養失調のため肺結核を患い翌年帰国しました。懸命の看病の甲斐もなく、半年後に戦病死。季枝は看病中に結核に感染し、腎臓一つを失いました。
敗戦後の日本は食糧事情も悪く、栄養失調による病気や餓死が溢れていました。自らの学んだ栄養学や調理技術そして義父拭石丑次郎や夫準一の財産を元に、何をどう食べれば病気にならず生きることができるかを伝えようと、「お料理のおけいこ」というチラシを配り、西宮市今津水波町の地で1946(昭和21)年10月に私塾を開校しました。
妹丸山勝子(現第3代目大村登久子校長)は、1947(昭和22)年3月に日本女子大家政学部を卒業した後、病気療養中の姉を助け、1949(昭和24)年4月の栄養士養成施設「兵庫栄養学園」の開設に尽力しました。「兵庫栄養学園」は、大阪大学・神戸大学・関西学院大学・大阪外国語大学の優秀な講師陣の協力を得て、関西初の栄養士養成施設として栄養士の教育を開始しました。
「兵庫栄養学園」の開設には、当時兵庫県職員であった佐伯栄養学校出身の中島佐賀雄氏(後に日本栄養士会副会長及び日本栄養改善学会会長を歴任されました)のご助力を得ていました。
1948(昭和23)年10月の医療法施行により、一定以上の病床数の病院に栄養士の配置が義務付けられたこともあり、栄養士の需要は多く、確実なものとなりました。 |
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拭石季枝 |
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拭石準一 |
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拭石丑次郎(肖像画) |
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中島佐賀雄(肖像画) |
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